2014年 10月 23日
『くま大モリ』 の報告です! |
「ブラ大モリ」2014秋
『くま大モリ』~熊谷家と〇〇の意外な関係 編~ を、開催いたしました~
秋はあちこちで様々なイベントが開催されるので、今回は開催日を2回もうけ、どちらかを選んでいただくという形をとりました。
1日(水)は地元大田市の方が多く、19日(日)には浜田市や出雲市など、大田市外の方が多く参加してくださいました。
ご参加くださったみなさん。本当にありがとうございました。
今回のポスターの写真はこちら。鳴龍で有名な【城上神社】拝殿の格天井です。

拝殿が建立されたのは文化九年(1812)。おそらく、その時に尽力した方々の家紋です。
分家も含めて熊谷家に関係するものは3つ。その他、熊谷家の大番頭さんだった松原屋と橋本屋のものもあります。
ちょうど19日は、城上神社の秋祭りでした。

熊谷家と城上神社との関係は深く、拝殿と鳥居にかかる額文字を奉納したり・・・神位の最高位である「正一位」を与えられたとき“町役人 産子 総代兼大願主 年寄”として尽力したとか・・・お祭りの時には、熊谷家から三方20台くらいに供え物を載せて女中さんたちが運んだとか・・・熊谷家当主が参られないとお祭りが始まらなかっただとか・・・。
その時に使われたものかはわかりませんが、熊谷家の家財の中に「春慶三宝 三十ノ内十入」と箱書きされた三方が(3箱)残っていますので、今回はそちらもごらんいただきました~

熊谷家の大番頭「松原屋小兵衛」と「橋本屋元蔵」が寄進したという【狛犬】

石見にも石工さんがたくさんおられるのに、こちらは大坂の石工さん作です。
町並みには、逆に町の人が建立した2人の大番頭さんの顕彰碑も残っています。
大番頭さんとは、今で言うところの専務クラスとのこと。豪商熊谷家を支えたのはおそらくこういう方々だったのだろうと思います。 藤原学芸員による、今後の更なる調査研究に勝手に期待がふくらみます。
と、
ご紹介が大変遅くなりましたが、今回の案内人は、石見銀山資料館の藤原雄高 学芸員です。

ご専門は「日本近世史」。 写真は、文政八年(1825)に書かれた【町方間数帳】について説明をしていただいているところです。
道路や川、橋の修繕費、帳簿作成に必要な筆などの購入費用(今でいうところの自治会費のようなもの)は、屋敷地の間口に応じて金額が決められたため、町内の屋敷地の広さや所有者などを記したものです。
こういうものからも熊谷家がいかに有力な商家だったかを知ることができます。現在のどこにあたるのかははっきりとしないまでも、当時の町並みを想像すると、この後の町あるきも一段と面白くなりますね!
こちらは、
代官所内にあった【掛所】と、熊谷家の地下蔵にあった【石梁】。

【掛所】は、今で言うところの役所庁舎内にある銀行の出張所といったところでしょうか? これも熊谷家とは大きく関係がありますね! そして、かつて熊谷家の地下蔵にあったとされる石製の梁が、代官所跡の庭にあるというのも、また面白いですね。
【熊谷家墓所】

勝源寺奥の漆喰塗の土塀に囲まれた場所が熊谷家代々の墓所です。が、ごらんのとおり、スズメバチが大きな巣を作っていて近づけず・・・初回は墓所の中に入るのを断念しました。 初回ご参加のみなさん。大変申し訳ありませんでした。

こちらが2回目の様子。
初代 熊谷宗右衛門直政からのお墓が、当主と妻が横並びで整然と並んでいます。
【熊谷家 三代顕彰碑】

よくお墓と間違えられるのですが、これは、当町の方々が建立した顕彰碑です。
左から、寛政の大火後、屋敷を再建した当時のー「民右衛門直忠」。
真ん中、浜田藩所替の危機を乗り切ったー「三左衛門信英」。
右側は、長州藩による石見銀山領の占領、江戸幕府の滅亡と、時代が大きく動き、熊谷家の家業も大きく変わった頃のー「三左衛門信孚」。
いずれも、人々の窮民対策などにも尽力し、それに感謝した町の人々が建てられたものです。
その後、
【松原屋小兵衛 碑】→【御銀蔵跡】→【銀蔵小路】→【竹美世跡】→【上田儀屋】→【旧大森郵便局】 と、巡り
【熊谷家住宅】へ到着
主屋二階座敷での、藤原学芸員による「座学」

熊谷家の誕生秘話。石見銀山発見伝説のもう一つのお話。など、貴重な資料と大変興味深いお話にみなさん真剣に聞き入っておられました。
熊谷家についてはまだまだ解らないことがたくさんあります。今後、更なる研究がすすみ、家の女たちのガイドも、もっともっと幅広く奥深くなればいいな~などと痛切に感じた、本当に興味深いお話でした。
【明治五年 家相図】と【占い盤】

『ブラ大モリ』2014夏~町並みケンチク散歩編~で初公開した家相図と、今回初公開の占い盤です。
占い盤の使い方はわかりませんが、こういうものが熊谷家に残っていることと、その精密な作りに改めて驚きます!
【地下蔵】内部公開

一般公開してから8年になりますが、いつもはガラス越しからながめるだけ。内部公開したのは初めてです。
新旧の石垣の違い。目地に埋めてある漆喰。土間の傾斜 など、なぜこんなものを地下に作る必要があったのか? 想像も膨らんだのではないでしょうか。
【衣装蔵】と【東道具蔵】

衣装蔵~蔵前座敷~東道具蔵の建物の変遷などの話は、私、尾村が担当しました。 私なんかが説明をさせていただくなんてーと思いながらも、
初回は、「三階建ての土蔵」や「ピンク色の土蔵」、「なまこ壁の土蔵」の話など、力と想いが入りすぎてくどくなりすぎたため反省。二回目は、あっさり説明しすぎて反応が鈍いーと、またまた大反省。
いろいろ勉強が必要なことを、痛感しました。
今や『ブラ大モリ』には欠かせない【おやつ】の時間。


初回は【おはぎ】、二回目は【ぜんざい】。
おはぎは、作っている時の写真を撮り忘れ、ぜんざいは、出来上がったものの写真を撮り忘れるという始末。
ご想像ください。
「ブラ大モリ」2014秋 『くま大モリ』~熊谷家と〇〇の意外な関係 編~
今回は、テーマが熊谷家ということで、長すぎるブログになってしまい大変申し訳ありませんでした。
最後まで読んでくださったみなさまに感謝。
また、ご参加くださったみなさん。
二回も (家の女たちの研修でもご案内いただいてるので、実は3回も)同じ内容でご案内くださった藤原学芸員。
取材に来てくださった、石見銀山テレビさんと、島根日日新聞さん。
本当にありがとうございました。
「ブラ大モリ」は、専門家の案内のもと、毎回違った切り口から大森の町並みを巡る まちあるきイベントです。
石見銀山資料館と家の女たちが共同で主催しています。
1㎞弱の町並みですので、歩いている場所は毎回ほとんど同じ・・・だというのに、テーマが違いますので、いつも新鮮な驚きや発見があり、同行している尾村も楽しみでしかたがないイベントです。
今後も、その道の専門家の方々にご案内いただき、続けていく予定です!
今後の予定は、HPやFBで随時ご案内いたします。
みなさまのご参加。心よりお待ちいたしております!
『くま大モリ』~熊谷家と〇〇の意外な関係 編~ を、開催いたしました~
秋はあちこちで様々なイベントが開催されるので、今回は開催日を2回もうけ、どちらかを選んでいただくという形をとりました。
1日(水)は地元大田市の方が多く、19日(日)には浜田市や出雲市など、大田市外の方が多く参加してくださいました。
ご参加くださったみなさん。本当にありがとうございました。
今回のポスターの写真はこちら。鳴龍で有名な【城上神社】拝殿の格天井です。

拝殿が建立されたのは文化九年(1812)。おそらく、その時に尽力した方々の家紋です。
分家も含めて熊谷家に関係するものは3つ。その他、熊谷家の大番頭さんだった松原屋と橋本屋のものもあります。
ちょうど19日は、城上神社の秋祭りでした。

熊谷家と城上神社との関係は深く、拝殿と鳥居にかかる額文字を奉納したり・・・神位の最高位である「正一位」を与えられたとき“町役人 産子 総代兼大願主 年寄”として尽力したとか・・・お祭りの時には、熊谷家から三方20台くらいに供え物を載せて女中さんたちが運んだとか・・・熊谷家当主が参られないとお祭りが始まらなかっただとか・・・。
その時に使われたものかはわかりませんが、熊谷家の家財の中に「春慶三宝 三十ノ内十入」と箱書きされた三方が(3箱)残っていますので、今回はそちらもごらんいただきました~

熊谷家の大番頭「松原屋小兵衛」と「橋本屋元蔵」が寄進したという【狛犬】

石見にも石工さんがたくさんおられるのに、こちらは大坂の石工さん作です。
町並みには、逆に町の人が建立した2人の大番頭さんの顕彰碑も残っています。
大番頭さんとは、今で言うところの専務クラスとのこと。豪商熊谷家を支えたのはおそらくこういう方々だったのだろうと思います。 藤原学芸員による、今後の更なる調査研究に勝手に期待がふくらみます。
と、
ご紹介が大変遅くなりましたが、今回の案内人は、石見銀山資料館の藤原雄高 学芸員です。

ご専門は「日本近世史」。 写真は、文政八年(1825)に書かれた【町方間数帳】について説明をしていただいているところです。
道路や川、橋の修繕費、帳簿作成に必要な筆などの購入費用(今でいうところの自治会費のようなもの)は、屋敷地の間口に応じて金額が決められたため、町内の屋敷地の広さや所有者などを記したものです。
こういうものからも熊谷家がいかに有力な商家だったかを知ることができます。現在のどこにあたるのかははっきりとしないまでも、当時の町並みを想像すると、この後の町あるきも一段と面白くなりますね!
こちらは、
代官所内にあった【掛所】と、熊谷家の地下蔵にあった【石梁】。

【掛所】は、今で言うところの役所庁舎内にある銀行の出張所といったところでしょうか? これも熊谷家とは大きく関係がありますね! そして、かつて熊谷家の地下蔵にあったとされる石製の梁が、代官所跡の庭にあるというのも、また面白いですね。
【熊谷家墓所】

勝源寺奥の漆喰塗の土塀に囲まれた場所が熊谷家代々の墓所です。が、ごらんのとおり、スズメバチが大きな巣を作っていて近づけず・・・初回は墓所の中に入るのを断念しました。 初回ご参加のみなさん。大変申し訳ありませんでした。

こちらが2回目の様子。
初代 熊谷宗右衛門直政からのお墓が、当主と妻が横並びで整然と並んでいます。
【熊谷家 三代顕彰碑】

よくお墓と間違えられるのですが、これは、当町の方々が建立した顕彰碑です。
左から、寛政の大火後、屋敷を再建した当時のー「民右衛門直忠」。
真ん中、浜田藩所替の危機を乗り切ったー「三左衛門信英」。
右側は、長州藩による石見銀山領の占領、江戸幕府の滅亡と、時代が大きく動き、熊谷家の家業も大きく変わった頃のー「三左衛門信孚」。
いずれも、人々の窮民対策などにも尽力し、それに感謝した町の人々が建てられたものです。
その後、
【松原屋小兵衛 碑】→【御銀蔵跡】→【銀蔵小路】→【竹美世跡】→【上田儀屋】→【旧大森郵便局】 と、巡り
【熊谷家住宅】へ到着
主屋二階座敷での、藤原学芸員による「座学」

熊谷家の誕生秘話。石見銀山発見伝説のもう一つのお話。など、貴重な資料と大変興味深いお話にみなさん真剣に聞き入っておられました。
熊谷家についてはまだまだ解らないことがたくさんあります。今後、更なる研究がすすみ、家の女たちのガイドも、もっともっと幅広く奥深くなればいいな~などと痛切に感じた、本当に興味深いお話でした。
【明治五年 家相図】と【占い盤】

『ブラ大モリ』2014夏~町並みケンチク散歩編~で初公開した家相図と、今回初公開の占い盤です。
占い盤の使い方はわかりませんが、こういうものが熊谷家に残っていることと、その精密な作りに改めて驚きます!
【地下蔵】内部公開

一般公開してから8年になりますが、いつもはガラス越しからながめるだけ。内部公開したのは初めてです。
新旧の石垣の違い。目地に埋めてある漆喰。土間の傾斜 など、なぜこんなものを地下に作る必要があったのか? 想像も膨らんだのではないでしょうか。
【衣装蔵】と【東道具蔵】

衣装蔵~蔵前座敷~東道具蔵の建物の変遷などの話は、私、尾村が担当しました。 私なんかが説明をさせていただくなんてーと思いながらも、
初回は、「三階建ての土蔵」や「ピンク色の土蔵」、「なまこ壁の土蔵」の話など、力と想いが入りすぎてくどくなりすぎたため反省。二回目は、あっさり説明しすぎて反応が鈍いーと、またまた大反省。
いろいろ勉強が必要なことを、痛感しました。
今や『ブラ大モリ』には欠かせない【おやつ】の時間。


初回は【おはぎ】、二回目は【ぜんざい】。
おはぎは、作っている時の写真を撮り忘れ、ぜんざいは、出来上がったものの写真を撮り忘れるという始末。
ご想像ください。
「ブラ大モリ」2014秋 『くま大モリ』~熊谷家と〇〇の意外な関係 編~
今回は、テーマが熊谷家ということで、長すぎるブログになってしまい大変申し訳ありませんでした。
最後まで読んでくださったみなさまに感謝。
また、ご参加くださったみなさん。
二回も (家の女たちの研修でもご案内いただいてるので、実は3回も)同じ内容でご案内くださった藤原学芸員。
取材に来てくださった、石見銀山テレビさんと、島根日日新聞さん。
本当にありがとうございました。
「ブラ大モリ」は、専門家の案内のもと、毎回違った切り口から大森の町並みを巡る まちあるきイベントです。
石見銀山資料館と家の女たちが共同で主催しています。
1㎞弱の町並みですので、歩いている場所は毎回ほとんど同じ・・・だというのに、テーマが違いますので、いつも新鮮な驚きや発見があり、同行している尾村も楽しみでしかたがないイベントです。
今後も、その道の専門家の方々にご案内いただき、続けていく予定です!
今後の予定は、HPやFBで随時ご案内いたします。
みなさまのご参加。心よりお待ちいたしております!
▲
by kumagai-ke
| 2014-10-23 19:30
| 石見銀山